Sound Art Listening Guide vol.5

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How to listening?

第五回 『ノイズ』

認識と境界の音楽

これまでロウアーケース、フィールドレコーディング、アンビエント、ドローンと書いてきましたが、実験音楽と聴くと、まずこれを思い浮かべる方も少なくないでしょう。五回目となる今回はノイズミュージックについてです。
騒音音楽と言えば、アントニオ・ルッソロ(1877-1942)が第一人者とされていますが、アントニオとその弟のルイージの自作楽器やミュージックコンクレートによるノイズは美術における未来派への傾倒から生まれたものですし、ヴォルター・ルットマン(1887-1941)は実験映画の文脈から、ピエール・シェフェール(1910-1995)は両親が技術者だったという素養がオープンリールを使ったテープコラージュへ繋がっていくわけで、つまり初期においては現代音楽の延長上、また美術との結びつきの上で非楽音を扱い音楽を構築する事、また、それによる西洋音楽メソッドの否定と超克、という事がノイズミュージックの根底に流れていたわけです。
まず上に挙げた三人の作品を聴いてみましょう。

■Antonio Russolo – Corale

■Walter Ruttmann – Opus IV

■Pierre Schaeffer – Études de bruits

あれ?そんなにうるさくないし、イメージするノイズと全く違うなと思われるかもしれませんね。
ですがこれが西洋的なノイズミュージックの源流です。
PAシステムがなかった時代においては、例え歪んでいなくとも、アンプで増幅され単に音量が大きいという事だけで充分にノイズ足り得たと想像できます。
そして当然ピークオーバーで割れてしまった音にはある種のカタルシスがある。


『ノイズでない』とははたしてどういう音なのか?

西洋音楽を、ある一定のルールの中でそのバリエーションを楽しむ音楽だ、と見る時、当然それ以外の、他にありえたであろう複数の音楽というものがその外側に現われます。
よく言われる楽音/非楽音という対立は西洋音楽の枠の中でしか見られない構造であり、全ての音楽は音響であるという見方を示した音響派の登場は、その対立をなし崩していきました。音響派の登場を準備したのは間違いなくノイズと現代音楽です。
音楽を音響として見た時の、ノイズであるか否か、という区分けは非常にパーソナルなものです。


私が常に問題にしているのは「ノイズでない」とははたしてどういう音なのかという事です。
音響的な側面から見れば、ピアノは叩く音ですし、バイオリンは引っ掻く音に過ぎず、つまり、この地平では全ての音は民族の文化的な背景、更に個人的な経験においてのみ、その区分けが可能となるわけです。
例えば日本では秋になると虫の声を楽しむ風習がありますが、虫の声を楽しむ文化は日本特有のものですし、日本人なら心地よく感じる小川のせせらぎも、お隣韓国ではただの雑音に過ぎないという事があります。
ですので、上に挙げたルッソロやルットマン、シェフェールなどの音楽を現在の耳で聴くと、とてもノイズには聴こえない。
そういう事も無論あり得ます。


先程も書きましたが、ノイズの面白いところは、それがノイズであるか否か、という事が、その音がその個人にとって不快であるか否か、という事とほぼ直結している点です。これは他の音楽ではまずあり得ない。
と言うのも、他の音楽では、その音楽が音楽的に優れているかどうか、という事と、個々人がそれを心地よいと感じるかどうか、といった事の間にはしばしば距離があります。音楽的に優れているかという事は西洋的な音楽教育を受けている、もしくは相当量の音楽を聴いていて、大凡のパターンやリズム感を把握している、両者は実は同じ事なのですが、とにかくそういった人でないと判断できないわけです。
しかし、ノイズミュージックは単に聴く人それぞれにとって不快であるか否か、それ一点において善し悪しを独断して構わない、と言うか善し悪しという判断自体が個々人の経験にあまりに寄り過ぎているが為にほぼ無効に見えるという事が言えると思います。
よってノイズは、俯瞰的にはまるで生き物のように多様な文化や個人的な認識と体験の渕を常に更新し続けている音楽と言う事ができると思います。


この動的な在り方そのものがノイズの圧倒的な魅力です。

●György Ligeti – Poème Symphonique For 100 Metronomes

●Xenakis Concret PH

●David Tudor – Rainforest

●Gordon Mumma – Stressed Space Palindromes

●François Bayle – Jeîta pt.1

●Erik M (Luc Ferrari) & Thomas Lehn – Les Protorhythmiques


ノイズは都市と潜在的に結びつき、まだまだ考える余地がある物


もう一つ、ノイズミュージックの圧倒的に優位な点は、その音響が代替不可能だという事です。
音が入れ替え可能とはどういう事なのか、と言われそうですが、MIDI的な音楽の要素を入れ替え可能なものと仮定した上での話です。
西洋的な音楽の分節に今のところの技術ではノイズは捉える事ができない。


例えば、日本の住環境がそのメタファーとして有効です。
地方から都市に出て来て暮らしている人の多くは、その土地に対して、なぜそこに住むのかという問いに「便利であるから」とか「教育や福祉関連の施設が充実しているから」と答えるでしょう。それは今の環境よりも他により優れている環境が現われれば、すぐさま自分にとって有利な土地へ引っ越す事が出来るというノマド的な態度です。
自分が暮らしている環境が代替可能である、という意識のあり方と、311以後益々大きくなってきている自分を形成したその土地から離れないという故郷愛のような代替不可能な態度は対立したあり方ですが、資本と結びついた便利であるという価値に、とりわけ平均律以降の音楽は加担している構造を持っていると言う事ができるでしょう。産業革命後にインダストリアルが生まれ、ライブエレクトロニクスと合流したところを見ても、都市とノイズは潜在的に結びつくもので、これからまだまだ考える余地があると言わざるを得ません。


近年デジタルでノイズを生み出す方法にグリッチというものがあります。
これは意図しないデジタルなエラーを最解釈したもので、美術の世界でもグリッチアートは特にアジア圏で盛り上がりを見せています。
例えば下のグーグルのロゴ画像は、

goo


グリッチ処理をするとこのようになります。


a


簡単に言えば、これをオーディオファイルに対して行い、あるノイズを取り出すわけです。


接触不良音を扱ったこのノイズは、大友良英さんとSachiko MさんのユニットであるFilamentがパフォーマンスの中で非常にアナログでフィジカルな所作からこれまで聴いた事がない音響(エラー)を取り出していたのが非常に印象的でした。



グリッチはあくまで方法であって、制作者の意図しないノイズ発生の驚きの瞬間にのみ価値があるのであって、グリッチをグリッチと理解した瞬間に狭義のノイズではなくなってしまう。


繰り返しますが、アンビエントやドローン、ミニマリズムなどの実験音楽は、それがそういった音楽であると認識したところで、その音楽自体が変わるわけではありません。ところがノイズは不快であるか否かというような認識の境界を常に行き来し更新されていくとノイズの価値やあり様そのものが変容してしまう。ノイズミュージックはそのあり方が常に音楽から外れていく、という性質が故に、音楽そのものを浮き彫りにしていくのです。


相田悠希


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第二回『フィールドレコーディング』

第三回『アンビエントミュージック』

第四回『ドローン』

対談『アンビエント・ドローンの定義』

対談『アンビエント・ドローンのにおけるライブパフォーマンス』


<参考音源>

●Toshimaru Nakamura – Nimb #49

●Yasunao Tone – Part I

●ATAK019 Soundtrack for Children who won’t die, Shusaku Arakawa Keiichiro Shibuya

●shotahirama “post punk” – trailer, long ver


about: Yuki Aida

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音楽レーベルmurmur recrdsを主宰しているサウンドアーティスト。
アンビエントとダンスミュージックを自在に行き来するその特異なスタイルで
国内外のアーティストや評論家からも高い評価を得る。
これまでにCF、心理療法、映画への楽曲提供と様々な作品を制作。
2010年には元guniw toolsの
ギタリストJakeと共作シングルを発表。

「このまま行ってよし!僕の好きな感じのドローンです(坂本龍一)」

現在、電子音響に特化したレコードショップをオンラインにて運営。

http://murmurrec.com/


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